ぶちまけぶろぐ

メサイア好きすぎ芸人

メサイア、好きすぎる、助けてくれ

 

 

メサイアの話をします。前記事を見てもらえたら狂ったように好きなのはわかっていただけると思うんですが、「メサイアー悠久乃刻ー」本当に本当に幸せな時間でした。本当に本当にお疲れ様でした。

 

普段はオタクの愚痴ばかり書いているので、作品について言及するのは控えたほうがいいかなとは思っていたんですけど、あまりにも好きすぎて吐き出しても吐き出しても消化できないのでぶつけていこうと思います。

 

メサイアの設定自体が肌に合わねえ!って人間は今のうちに帰ってくれ!!身のためだ!!私は気が狂うほど肌に合う!!!!!

 

メサイアのことは死ぬほど褒めますが、

 

気に食わなかったオタクの話もします!すみません!

 

※これから書くことは盛大なネタバレを含む上に言いたいことをただ言うだけなので悠久以外の感想も含まれますし、あと見たことある人にしかわからない書き方をします。

 

メサイアを見たことが無い方、ぜひ、ぜひ見てください。

良さを紹介しようとすると卒論レベルの文字数になってしまうのでここでは控えますが、いろんな方が書いているわかりやすいステマ等を見ていただきつつ、できれば直接舞台に足を運んでいただきたいです。絶対続編あるので…。

 

とりあえずこれを見てください。

 

 

 

 

 (ちなみにこれから書くのは悠久の考察・感想というよりは、悠久で改めて感じたメサイアのいいところをひたすらに語ります)

 

 

 

まず最初に、何より、有賀と加々美、そして間宮、卒業おめでとうございます。

公演前から脚本の毛利さんや演出の西森さんが、「メサイア史上一番ひどい目にあわせる」とおっしゃっていたので…鋼や暁や極夜よりしんどいことがあるのかよ…って戦々恐々としつつ、しかしメサイアの世界観で言う「ひどいこと」っていうのは、ただ単に苦しいだけではなく物語の「美」を伴うものだと信頼しているので、とても楽しみでもありました。

 

確かに、有賀と加々美は本当に辛い思いをしていましたが、なんだか久しぶりに実体が2人揃って卒業できたなあ、と…終わりよければ全て良しってわけではないんですけれど、それだけで心が救われて、見終えたときの多幸感は素晴らしいものでした。

 

「こんな日が来ると思わなかった」

 

公式サイト等で公開されていたキャッチコピー、あらすじを踏まえた上でもほとんどの人が有賀のセリフだと予想していたと思います。

それをいい意味で裏切ってくる、それがメサイア…。

 

大阪の千秋楽にも足を運んだんですが、本当に来てよかった。

暁のときに大阪千秋楽に行けなかったことを今でもずっと悔いているので、悠久では何がなんでも行くと決めていました。

 

井澤さんが、過去を振り返ってから「こんな日が来るとは思わなかった」と、このフレーズを口にしたとき、死ぬのではないか…と思うくらい感情の全てがこみ上げてきました。推しじゃないのに…(前記事でも言ってるんですけど推しじゃないのに好きになってしまうのがメサイアです)

 

カーテンコールでのひとりひとりの挨拶、演出の西森さんのお話、座長2人の言葉。すごく丁寧に時間をとってくださって感謝以外の言葉がないです。

 

賛否あるのかと思いますが、演出である西森さんが舞台の上に立ってお話してくれることが、私はとても貴重で嬉しいことだと感じています。

それについてちょっとSNS学級会になっちゃったりしましたが、私は嬉しかった。それと同時に悔しかったなあと。

 

 

 

冒頭で「そして間宮」と書きましたが、これはもう触れないほうがいいんじゃ?ってくらい地雷人間にとっては地雷なんだろうけど、でもあえて触れさせてほしい。

 

演出家にこの作品で間宮をどう表現したかったか、それを公演本編ではなく、制作側から説明させなければいけなかったことが悔しかったんです。

 

ツイッターでは「なんでわざわざ喋ったのか」なんて言われてしまっていましたが、まあ、わかるんですけど、わざわざ言わなくてもわかっている人がわかっていればそれでいい、その気持ちもわかるんですけど、「わかってほしかった」んですよね、きっと。

自分は「わかっていた」側の人間なので、「はっきりと言葉にされると興が冷める〜」みたいな意見もわかるんですけどね。

 

まあいますごくオブラートに包んで静かに書いてますけど、この物語の真意がわからねえ奴がいるから言ってくださってんだろ!!!!!!!くらいの気持ちでしたけどね。

 

西森さんは、間宮をどうするべきか、ものすごく悩んだとおっしゃっていました。私たちが公演で見た完成されたものとは違う形の案がきっと山ほどあった。これが正解だと思って一発で作られたものではなくて、間宮のことも有賀のことも加々美のことも役者のことも、それから私たち受け取り手のことまできっと考えてくださったことだと思います。その事実だけで私は十分なんだけどなあ。

 

この物語、そして有賀と加々美の卒業ミッションにおける「間宮」の在り方について、私はやっぱり魅せていただたものが一番の形だったと思います。

西森さんがお話をしてくださったとき、真っ先に手が痛いほどの拍手をしてくれた方が近くの席にいました。ありがとうと言いたいです。全ての人が納得したわけではないのかもしれないけれど、あの会場の盛大な拍手がちゃんと感謝として伝わっていればいいな。

 

メサイアに対して絶対的な信頼を置いているので、これからも作り手側が思ったままのものを、こちらに媚びなくていい、紡ぎたい物語をつくっていってほしいです。

 

捉え方は人それぞれ、思い入れも人それぞれ。なのでどっちが正しくてどっちが間違っているとかは無いんですけど、でもやっぱり「間宮」は必要な存在で、その姿を、西森さんのお言葉を借りて言えば「2人の背中に間宮が見える」ことが重要だったんだと思います。

 

だからこそ間宮の存在をなかったことにしようとしていたり、出す必要がなかったという人の気持ちはわからないし、逆に間宮が大切だから加々美に負の感情を抱く人の気持ちもわからない。有賀にとって、シン、間宮、加々美、この3人が居なければ今の有賀は居ないし、この感動は生まれない。

 

ちなみに間宮の肩を持つつもりはありません。人間なので50:50に人を愛することはなかなか難しいです。どちらかというと、これだけのものを見せられてしまっては、加々美のことを好きになってしまう。有賀と加々美、はちゃめちゃに好きなメサイアなので二人にはこれからもずっと…悠久の刻を生きて欲しい、二人で。でもそこから、間宮の記憶を消す必要はないんです。

 

あの本当、シナリオについて文句を言うオタク、自分まったく理解できないんでボロカスに言いますけど、あなたが好きなそのキャラを構成する上で不必要な要素って何ひとつ無いはずなんですよ。全てがあったから今がある。物語に限らず人間みんなそうだと思います。だからちょっと何言ってるかわかんないっすね。

 

発言は自由だと思う。でも思いやりは持っていたい。

 

感動している人間の前で文句を言って、感動して泣いている人間のことを「軽い」などと言ったり傷つけたりする人間が無理すぎる…。それぞれの意見があるのはわかるけど、反対の意見を持つ人間の心まで傷つけるのはいつだって地雷を持っている方。これはメサイアに限らずの話なんですけど、悠久の感想でよくそういうオタクを見てしまったのでそれだけが悲しいことでした。誰も悲しまなくていい世界が訪れますように。

 

メサイアって、「悪役」がいない物語なんですよ。

どのキャラクターも大切にした上で紡がれている。

何を不満に思うのか…。

 

 

 

 

 

愚痴は終わり!

さて、メサイアのいいところ。

 

脚本の緻密さ、演出のこだわり、芝居の繊細さ、気付くたびに脱帽します。ひれ伏す。本当にすごい。語彙力がないのでうまく伝えられないんですけど、本当にすごい。

 

全作見てくれ、見てもらえればわかる。

 

 

 

そして今回の悠久で一番強く感じたこと。

ほんっっっっっっとうにこの作品に関わる全ての人間がメサイアという作品を愛してくださっている。

今までもずっとそういう作品だとは思ってきましたが今回より強く感じるようになりました。

 

舞台のカテコでよく役者が言う「キャストのみなさん、スタッフのみなさん、そしてお客様」への感謝。定型文なんですけれど、定型文に感じない真摯さがあるんですよね、メサイアって。これだけは盲目じゃないと思います。だってそうじゃないとこのクオリティの舞台は作れない…。

 

杉江さんが泣きじゃくりながら、音響、照明、映像、メイク、衣装…スタッフさんひとりひとりの名前を、稽古場でも呼んでいるであろう“愛称”で呼びながら、感謝を述べている姿は、作られた物語以外に対して感情が死んだ私の心にも久しぶりに光が宿るくらいに印象的に残っています。

支えてくれるスタッフが素晴らしい、それを信頼して全力を尽くせる現場なんだなあと改めて感じました。

 

表に立つ人間が、裏で支えてくれている人の名前を出す作品にハズレは無いんですよね。

 

 

 

それから、西森さんの挨拶の中で出た言葉で、すごく印象的だったものがあります。

実際に言っていた言葉選びとは少し違うかもしれませんが

 

メサイアって作品は、関わる人間が誰一人、作品を私物化しない奇跡の現場なんです」

 

っておっしゃっていて、ああ、だからこんなに素晴らしい作品ができるんだなあ、と。

(クソ演出家たちに煎じて飲ませてやりたい)

 

作品を一番私物化しがちな演出家がそう口にしている。すごい説得力ですよね。みんなで力を合わせて〜なんて簡単に言いがちですが、この作品は本当にみんなで力を合わせて作られている…。全力をぶつけあっているんだなあと思います。客席側にもそれが伝わってくる。

 

井澤さんや杉江さんがメサイア期間によくおっしゃっていた、「若い役者にここまで骨太な芝居をさせてくれる現場はなかなか無い」というお話。

お二人が出演される前から作品が好きだった身としては、これ以上にない褒め言葉だなあと思っていました。

初演からインパクトのある作品ではありましたが、ここまで成長したのは今まで書いてきた通り、素晴らしい奇跡の繋がりがあったからなんだと思います。

 

そういえば、サリュート役のジェームスさんの挨拶で、すごく心に残っている言葉がありました。

メサイアの出演が決まったとき『やべ〜、登竜門だよ』って(割愛)」

とおっしゃっていたことです。

 

メサイアって登竜門だったんだ…?って、それは見てきた側の意見なんですけれど、もしかすると役者界隈では「出演したい舞台」なのかな、と。

メサイアって、それなりに場数を踏んできた役者さんだったり、芝居を見込まれて選ばれた役者さんが多いのであまり登竜門っていう意識がなかったんです。

登竜門っていうと初舞台の役者が大勢いるテニミュのイメージが強かったので。

 

でもなんかいいですよね、登竜門って。メサイアがずっとずっと続いて、いつかはそう呼ばれることが当たり前になる時代が来るのかなあ、なんて考えたりもしました。

「登竜門」って言葉に負のイメージを抱く人もいるとは思うんですけど、でも確かに、メサイアに出た役者さんたちみんな圧倒的に成長していくじゃないですか…。この人にこんな秘めたる可能性があったんだ…と何度思ったことか…。

 

メサイアは、当て書きと言ってもいいほどに役者に寄り添ってストーリーと役が作られる。フィクションと現実の境界が曖昧になると、見ている側も、見せている側も感じている。だからこそ、メサイアではその人の魅力が最大限に発揮されてより輝いて見えるのではないかと思います。

 

 一慶さんの出演が決まったとき、インタビュー等で「やっと呼ばれた」って言っていたことも嬉しかったんですよね…ずっと出たいと思ってくれている役者がいる…。

それから一慶さんのファンの言葉がすごく嬉しかったことを覚えています。

メサイアに出ることを喜んでくれている方が多かった。そして見たあとに嬉しい感想をたくさん見かけた。作品のファンとしてはめちゃめちゃに嬉しいです。ありがとう一慶さんのファン。

 

昨今の作品って推しの出演が決まると病む、みたいなこと多いじゃないですか。ああ、通わなきゃいけないんだ…みたいな。自分もそういうときがあったので本当によくわかるんですけど。

 

そんな中でメサイアに出たいと思ってくれている役者がいて、メサイア推しが出てほしいと、羨ましいと言ってくれるオタクがたくさんいる。

暁〜悠久くらいの間にそういったものをたくさん目にしたので、すごく嬉しかったです。

 

作品が成長していってくれることが純粋に嬉しいです。

 

 

 

成長といえば、変わらないものもあるけれど、変わっていくものもあるんだなあと思った話をしようと思います。

 

それは自然とメサイアの世界に出来上がっていた「先輩」「後輩」という関係。もちろん作中で後輩キャラが「先輩」と呼んでいたりするので、そういう流れができるのは当たり前だと思うんですが、それを演じる役者自身が本気で「先輩」を尊敬して、「後輩」を大事にしていることに驚いたんです。

 

私が好きになったころはそもそも先輩後輩という概念すらなかったので…

彼らの口から「先輩たちの背中を」という言葉を何度も耳にするたびに新鮮な嬉しさがありました。

 

先輩たちが見せてくれた背中に憧れて、自分たちもああなりたいと思う、そして同時にこの作品を背負う責任の重大さを感じて覚悟をする。いつのまにかそんな流れができていて、うまく言葉にできないんですけど、むず痒いような嬉しさが、口元緩んじゃうような嬉しさがあります。

 

 そして後から入ってきた人たちが「先輩」の姿を忘れずにいられるのは、卒業していった役者自身が出ていないくても、その役は作中でずっと生き続けているメサイアならではなのかなと。

 

西森さんと毛利さんもおっしゃっていましたが、あえて名前だけでも出すようにしている。卒業したら終わりじゃなくて、現実とリンクさせながら「サクラたちはこの世界のどこかで生きている」 ことを感じさせてくれる。

 

代役がきかない作品。

最初はまおくんの引退からそういう流れができたのかもしれませんね。当時は「もう少しこの4人を見ていたかったけれど、卒業しても仕方がないことなんだ」と受け取っていましたが、健斗くんが休業したときもずっと待っていてくれた、廣瀬が声優に転向するときも出演できなくても一緒に卒業できる物語を紡いでくれた、、、。

 

役者に合わせて物語が紡がれていることを、明確に言葉にされたことはなかったですが

杉江さんが「もしも杉江大志が死んだら、加々美いつきが出てくることは二度とない。」ってはっきりとおっしゃっていて、確信が持てました。

 

もうなんていうか、好き、愛してるって叫びたいくらいこの作品が好き。

ありがとうしかない。

 

あと、自分自身ものすごくひねくれているし頭も悪いんですけれど、メサイアに触れると考えさせられることが多いです。好きだからこそだとは思うんですけれど、フィクションの世界で語られる物語が、私たちが考えなければいけない現実ともリンクしている。「世界の平和」のことなんて考えたこともないし関わっているとも思わなかったけれど、視野が広くなるといいますか、自分の中の小さな世界に置き換えたとしても勉強になる時がある。

今作でいうと、加々美の「人が死ぬって、大変なことなんだよ!!」という叫びには、ハッとさせられました。当たり前なことなんだけれど、この世界観に触れていると忘れてしまっていたことだなあと。 舞台を見ていて、誰かの台詞がこんなにも胸にすっと入ってくることは初めてのことだったので印象に残っています。

杉江さんと加々美の心が真っ直ぐだから、届いたんですかね。

そう、役として発せられる台詞に対して、役者の人間性が加わる割合が、きっと他の作品に比べて圧倒的に多い。迫力を増すことが多いんですよね、メサイアって。だから引き込まれてしまう。好き。

 

 

 

 

 

悠久を観劇して、過去作品を見返して、たくさんの思い出を掘り返して改めて気がついたのは、「メサイア」という作品は、とても異色で特別だということ。

 

2.5、というくくりに入るのかもしれませんが、明確に2.5なわけではなく、小説原作とはいえ舞台・映画・ドラマで紡がれている物語はすべて書き下ろしの新作。だから次回公演は観に行くその日まで何が起きるかわからない。登場するキャラクターも原作には居ないことが多い、無知の状態で挑む2.5。

 

それでいて、2013年4月から始まったプロジェクトはもう10作品以上にも渡り、今もなお人気を伸ばし続けている。

 

単純にすごいことだと思います。

 

ずっとこの世界を見ていたい、触れたことのない人には是非一度でいいから、観劇してほしい。自信を持ってオススメできる作品です。

 

 

 

長々と、話があっちにいったりこっちにいったりする読みづらい感想を書いてしまいましたが、ここまで読んでくださった方がいるのであれば、本当にありがとうございます。

 

悠久期間中に、さらにメサイアのことを好きになって好きすぎてどうしようもなかったので、どうして好きなのか、自分の中で整理したかっただけなんです。

 

同じ気持ちの方がいてくれたら嬉しいなあ。友達になってください。